より詳しく知りたい方は、池間島について書かれた書籍や資料をご参照ください。
池間島は、宮古島から北西約16km、池間大橋(1992年開通)でつながっており、市街地からは車で30分ほどの距離です。周囲9km、車で15分もあれば1周できてしまう小さな島ですが、ここにはたくさんの魅力が詰まっています。
島の中央部には「イーヌブー」と呼ばれる池間湿原が広がっており、水鳥や湿地帯植物の宝庫となっています。島の北東5~15kmには日本では最大級の大規模なサンゴ礁群「八重干瀬(やびじ)」が広がっており、豊かな漁場として、また、釣りやダイビング・シュノーケリングのポイントとして親しまれています。
池間島は、かつてカツオ漁で興隆を極めた海洋民族の島です。そして、「ヒャーリクズ」や「ミャークヅツ」といった祭や、オハルズ御嶽をはじめとする多くの聖域と、祭祀を護り続ける心の文化を大切にする島です。
んみゃいーふぃーさまいー すでぃがふぅ (池間においでくださって、ありがとうございます!)
池間島の人々は古来海に親しんでおり、海の技にも長じ、琉球王朝時代の公船にも乗り込んで船頭などしていたようです。1522年の与那国遠征(いわゆる鬼虎征伐)には池間島からも海の勇者が参戦していた模様がアーグに残されています。また、多くの座礁などの海難事故の際には池間の海者がその救助に携わり人命救助に尽力してきました。
1904年には池間漁業組合ができ、翌1905年にはカツオ漁業が始まりました。1910年に漁業組合の正式な認可、八重干瀬の専用漁業権取得、鰹漁業生産組合ができ、池間のカツオ漁が本格的に始動しました。
池間島はもともと、2つの島でしたが、1525年に「四島の主」が島民を動員して現在のフナクス(船越)に石橋を積んだと言われています。大正末期より入江の干拓が進み、現在の小中学校がある「ユニムイ」が形成されました。1983年に池間漁港が開港されましたが、その際の埋立工事により汽水域であったイーヌブー(北の入江)内は淡水化し、現在の湿原へと変わっていきました。
島の行事や祭祀のほとんどは、旧暦で行われます。
ヒャーリクズ:旧暦5月4日に水浜広場の浜で行われる爬竜船漕ぎ競漕。「ヒャーリ」は「ハーリー(爬竜)」、「クズ」は「漕ぎ」。糸満の漁師から伝わり、明治28年より始まったとされる池間のヒャーリクズは、2013年には118回を数えました。3艘のサバニに乗り込み、様々なチーム編成で腕を競い、熱戦が繰り広げられます。爬竜船競漕のあとは、広場で相撲大会も行われます。
ミャークヅツ:旧暦8月~9月の甲午の日から3日間行われる池間島最大のイベントです。55歳以上の男性が「ムトゥ」に集い、午後からは水浜広場でクイチャーを踊ります。また、この3日間だけは、オハルズ御嶽への参拝ができます。ミャークヅツの期間は、遠く離れている親戚縁者たちが島に戻ってきて、大変な賑わいとなります。【県選択・市指定無形民俗文化財】
島の安全と繁栄を願い、大主神社の神様に選ばれた「司母(ツカサンマ)」とよばれる女性たちがとりおこなう神願いです。ここでは、野口武徳氏の著書「沖縄池間島民俗誌」p.221-244(1972)の情報をひとつの目安として記載しています。
この湿原は、もともと海とつながった入り江になっており、エビや魚などが豊富に獲れる、島民の食糧庫でした。1963年から1982年にかけて行われた漁港整備で海と遮断され、現在は淡水の湿地となっています。淡水湿地となった現在では、宮古諸島最大のカモ類の飛来地として、多くの渡り鳥や野鳥を見ることができます。
多くのカモ類の他、ムラサキサギ、ハシナガクイナ、オオハクチョウなどが確認されています。
沖縄県内で最大の湿地であり、環境省の日本の重要湿地500にも選定されていますが、現在ではヒメガマなどの植物が繁茂し、陸地化が急激に進んでいます。
池間島では、イーヌブーの再生に取り組むことで島の元気を取り戻すための活動を始めています。
毎年旧暦5月15日の満月の前後になると、産卵のためにオカガニが池間湿原から浜辺へ一斉に移動するようすが観察できます。卵を抱いたオカガニの大群がじゅうたんのように陸地を埋め一斉に海に移動し、断崖の波打ち際で放卵する姿は感動的です。
八重干瀬(やびじ)は、池間島の北東の沖合に広がる巨大なサンゴ礁です。南北17km、東西6.5kmの海に大小100あまりのサンゴ礁(リーフ)があり、それぞれに池間の言葉で詳細に名前がつけられています。「イラウツ・ビジ」「ンナ・ヌ・ヤー」など、そのリーフでよくとれた魚介類にちなんだ名前や、「カナマラ」「ドウ」など人体にたとえたもの、「・・・タカウリ」はサシバが降りてきて餌をとることがつけられた名前など、八重干瀬の多様な環境を知り尽くして伝えられてきたことがわかります。
古くから池間の海人(インシャ)たちの豊かな漁場であり、「春は底魚一本釣り漁、夜釣り、夜の赤イカ漁、素潜り追い込み漁。夏はカツオ漁業で使用する生餌を獲り、蛸捕り漁、アギヤー(グルクン追い込み漁)、潮干狩り漁。(宮古島サンゴ礁ガイドのなかまたち2013;p.7)」というように、1年中様々な漁業の操業ができる海です。「八重干瀬に足を向けて寝る海人は良い海人にはなれない」という先祖の教えもあるそうです。
大潮になると、大陸状に干上がってくるリーフには、色とりどりの様々なサンゴや海の生き物を見ることができます。
旧暦3月から4月ごろの大潮がもっとも干満差が大きく、旧暦の3月3日でサニツ(浜降り)の時期になると、多くの人々がここを訪れ賑わいます。
八重干瀬は国内最大規模のサンゴ礁群であり、2013年2月には国の名勝・天然記念物に指定されました。
集落を歩くなら、このようなコースがおすすめです。
目安として30分~60分で歩くことができます。重要な聖域もありますので、島の人に案内してもらうことをおすすめします。
スタート:八重干瀬センター→バリナウダキ→ナカマグス→ヤマグスンツ→旧池間番所跡・遠見台→オハルズ御嶽→ナッヴァ御嶽→水浜広場
カツオ漁最盛期には鰹節工場がいくつもならび、架橋前は宮古島への定期船もこの浜から発着しました。物流の中心であるこの浜はいつも人で賑わっていました。
漁港ができる前は、堤防でイーヌブーと海が仕切られ、この水門で水位調整が行われていました。この堤防は二条橋と呼ばれ、子どもたちの通学路でした。いまはこの水門の跡だけがひっそりと当時の面影を残しています。
池間島のミャークヅツ、ヒャーリクズなどの伝統行事はすべてここで行われます。公民館の日陰はオジイたちがいつも集う場所で、「サミット会場」と呼ばれています。ここからの夕陽は格別です。
【国指定史跡】遠見台は、琉球王朝時代、近海を航行する進貢船や異国船などの発見・監視等にあたった場所です。眼下にナカマグスの浜、その先に池間大橋、東には大神島、南には平良の街が望見でき、眺めは絶景です。
遠見台とナカマニーへ行く少し手前に、旧池間村番所跡があります。番所はブーンミャーとも呼ばれ、貢納品である織物の管理も行われていました。
八重干瀬センターから集落へ向かうと、目の前の高い嶺の大きな切れ目が見えてきます。名前の意は、バリ(割り)ナウ(長い)ダキ(岳)。神の通る道として、聖域の一つとなっています。
お願い:島にはいくつもの聖域があり、島民のもっとも大切な場所です。池間島民は、島の神々を敬い、畏れ、いつも身近に感じています。御嶽や拝所に立ち入ることは絶対にご遠慮ください。
ナナムイ、大主神社とも呼ばれる池間島の信仰の中心で、島全体の守護神と信じられています。ミヤークヅツの期間以外、鳥居よりなかに立ち入ることはできません。
ナッヴァの神は女性で、旅行者の安全、航海の安全を守ってくれると信じられています。ナッヴァ御嶽の前には、神様の船を係留するためのものといわれる石があります。
「ナカマ」は池間の古い地名で、「ニー」は「根」「~の中心」といった意味です。手前の石積は初代のツカサ(神女)の墓とも言われています。
漂着した美しい男性を祀ったと言われており、学問・出世・豊穣の神と信じられています。左手には石積の「ミャーカ」という古い墓があります。御嶽の前はかつて前里村番所がおかれ、池間小学校が初めて建設されたのもこの場所でした。
池間島民は、真謝(マジャ)、上げ枡(アギマス)、前之屋(マイヌヤー)、前里(マイザトゥ)の4つのムトゥのいずれかに属しています。池間で生まれたものは、誕生の次のミヤークヅツに父親が所属するムトゥへ行き、そのメンバーとして登録されます(これを「マスムイ」という)。池間島の55歳以上の男性は「ムトゥウヤ」となり、ミャークヅツの期間は所属するムトゥに集います。ウヤたちは、マスムイを行い、祖先を敬うとともに子孫繁栄を願います。
池間島の暮らしと自然、島の人々が大切にしてきた風景や地名などを案内するガイドマップができました。池間島へお越しの際は、ぜひご活用ください。
池間島離島振興総合センターで配布しております。
写真をクリックすると、pdf版をご覧いただけます。(2.8MB)
〒906-0421
沖縄県宮古島市平良字池間90-6
◆きゅ~ぬふから舎
TEL.0980-75-2870
FAX.0980-75-2872
◆おやこぼし学園
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